筆跡の話。
2015年 07月 05日
ふざけて自分の字をフォントなどと称してかれこれ数年になりますが、日々真剣にフォントの研究や制作に従事されている方々には本当に恥ずかしく思っています。
すみません。
ふざけているだけです。
これは例えば、たまに上手くできた料理に気をよくした人が、自分家の食卓のことを「割烹猫町」とか「猫町亭」などと自称してしまう感じに似ていて、要は調子に乗っているだけなのです(料理のそれも自称していた自分っていったい…(=グリルふみ代))。
閑話休題。
自分が「フォント」という言葉を初めて聞いたのは大学生の時で、それは「あなたの字をフォントにしたい」と言われた時だったと思います。
当時はまだ大学のレポートも、手書きとワープロとパソコンが入り乱れているような時代で、パソコンを持っていなかった自分はもちろん「フォント」という言葉を知りませんでした。
それが字体のことと分かり、(へえ、そんな言葉があるのか)と思ったことを思い出します。
まあ件の「フォントにしたい」云々はただの世間話でしたが、それ以来しばしば同じようなことを言われるようになり、フォントという言葉に愛着を持つようになりました。
今ではフォントという言葉もずいぶん市民権を得ましたよね。
自分の字のフォント感についてはいつか真面目に考えてみたいなと思うわけですが、先日の話にからめて自分の筆跡に関する失敗談を思い出しました。
自分の筆跡は得な点もあれば、損な点もあり、良い点としては「読みやすい」と言ってもらえることです。
が、悪い点は印刷であったら起きるであろうトラブルが実際に起きることでした。
これは実際にあったことですが、例えば手書きの発注書で何かを注文する際、自分のようにきっちりそろえて書くよりも、汚い字で殴り書いて注文した人のほうに入荷のミスは少なかったりしました。
自分のはほとんど活字みたいな感じになってしまうので、アルファベットや数字がかえって見づらくなってしまうのかもしれません。
自分では正確に書いているつもりだったので、ショックも大きかったです。
視覚的に分かりやすいのは、手書き文字特有のあのバラバラ感なんでしょうか。
そろっていないほうが、弁別しやすいのかも。
それとも、乱れた文字のほうがちゃんと見なければと注視時間が長くなり、正確に判断できるのでしょうか。
認知心理学のゼミ生の方は実験をおすすめします。
そして結果を教えてください。
見やすさが正確な判断につながらないという絶望的な結果が出ると、いっそすがすがしく思います(泣)。