ほんまかいな。
自分で書きながらそれはまだちょっと早いかもと思ったのですが、最近かなり自由に無罫ノートを使えるようになってきた猫町です。
遅。
遅すぎですよね。
これが普通の文房具ブログならよくある話題の一つだなという感じですが、ブログの名前に「無罫」と入っているのにじゃあ今まで何をやっていたんだという話になりますよね。
今までは何をやっていたかと一言で言うと無罫と遊んでいたのだと思います。
十分ですよね。
十分だと思っています。
別に過去の自分を否定したいわけでもないし、無罫と遊ぶのも大事なことです。
が、自分の場合はそこに「あるべき姿」を求めすぎており、「あるがままの姿」からは遠いものになっていたように思うのです。
見た目であったり、使い方であったり、どうしても理想みたいなものがあり、それに近づけたり実行できたりするのがうれしかったというのがこれまでの自分でした。
が、そうしたことを追求する中でどうしても犠牲になるスピードや生産性といったことを考えると、もう少しノート自体を生きたものとして使う、つまりはもっと生き生きとしたノートのありようみたいなものがあるのではないか、ということに思い至ったのです。
きっかけとなったのはらくがき帳でした。
らくがき帳にいつもよりも丁寧ではない文字で走り書きしながら勉強しているとき、殴り書きほど不快感がない(眺めても腹が立たない程度の見た目である)のに物事が進行し、はかどっている感じがいいな、と思いました。
そして比較的さっさと捨ててしまうらくがき帳でこれをやるなら、比較的長く置いておくノートでこれをやればいいのではないか、とらくがき帳風の使い方で無罫ノートを使ってみようとしたのがこのドラえもんのノートでした。
そんなこと…
皆さんが何十年も前からやっていることです。
ただ猫町にはそれが難しかったのです。
無罫にも比較的真っ直ぐに字を書くことのできる自分にとっては無罫も横罫も方眼もさほど変わりません。
むしろ罫幅が自由になる無罫だからこそ自分の満足のいくまできれいに書き上げることもしてきたし、それが楽しかったのです。
が、流れていく感じ、進行していく雑な感じもいいな、とようやく思ったんですよね。
丸10年以上「無罫」と冠したブログを書き続けてようやく少しだけ自由になれそうな気がしてきたんですよね。
というわけで、このドラちゃんのノートの中はいつもよりも少し汚めの猫町フォントがびっしり並んでいます。
もともと自分は自分の字を「死んだ字」だと思っていましたが(勢いがないので)、この中の字は少し生きていて体温があります。
殴り書きは依然として嫌いですが、少しだけ小走りで走り書きながら新しい自分とノートの使い方を模索しているところです。