興味深い記事。
2024年 11月 07日
昭和生まれで平成初期に中学、高校、大学と進学した猫町にとって手書きは当たり前の話でしたが、この記事の2ページ目の、
「手書きでは、すべてを書き取れない分、要点をまとめてノートを取ることにな」るため「情報の内容を咀嚼したり自分で補って考えたりする脳内の作業が生じ」、その結果「『手書きでノートを取る』ことで内容の理解がより深まる」
というくだりはものすごく分かる気がしました。
一言一句書き留められないからこそ聞きながら情報を取捨選択し、限られた時間で後で見てわかる程度のノートを作っていくんですよね。
猫町は字を書くのが遅く、かといってスピードをカバーするための殴り書きや走り書きも好きではなかったため(雑な字を書いている時点で心が乱れて苛々してしまう)、特に「情報の取捨選択」をしながらノートをとる必要がありました。
そのためには授業を集中して聞いておく必要があり、また聞き逃した部分を後で補っておく必要もあり、そうしているうちに自分なりの勉強の仕方を身に着けたように思います。
だから大学のノートなどはきれいに書いてはいても猫町の脳みそと連動しているからこそ意味のあるものであって、何度か人に貸したことがありますが(見ても分からないだろうな)と思ったものです。
学生のノートをめぐる言説の中には「きれいな字でノートをとる奴は馬鹿」とか「頭のいい人ほど字は汚い」などいろいろありますが、書かれたものだけを見てどうこう論じることはできず、それらがどの程度学習者の理解を助けるものであったのか、ということが肝心なのだろうと思います。
自分は字を書くことにこだわりや制限があったからこそ大学の講義に集中できたんだな、と今回の記事を読んで懐かしい気持ちになりました。
by mukei_font
| 2024-11-07 23:59
| 文房具与太話
|
Comments(0)